少し話をしよう。
今日は、生まれてこの方、
俺が長らく抱えてきた本当の「苦悩」と、
「恐怖」について喋ろうと思う。
ロシアの文豪である、
ドストエフスキーは、囚人や捕虜に対する
この世で最も残酷な刑罰について、述べたことがある。
ドストエフスキーによれば、
最も残酷な刑罰とはこうだ。
その囚人にある仕事を与えろ。
その仕事といういのは、
A地点にある土の山を、
B地点に移動させることだ。
それが終わったら、、、
今度は、B地点に移した土の山を、
A地点に戻させる。
これを繰り返させれば、
4日か5日もすれば、囚人は気が狂って、
自ら命を絶ってしまうだろう。
ドストエフスキーは、続けてこういった。
「この世で一番残酷な刑罰とは、
徹底的に無益で、無意味な労働をさせることだ。」
俺が幼い頃だった。
幼い頃は、ただ大人しくしているだけで、褒めてもらえた。
大人しく先生の話を聞く。
大人しく授業に参加している。
それだけで、褒めてもらえた。
そんなことからはじまって、、、
より厳しい運動、
より厳しい難しい授業へと続き、
難易度が高くなればなるほど、
大人しくしていくことの価値は、高まった。
大人しくしていることが、美徳となり、
大人しくしていることが、性格となった。
いつの間にか、好きなことを差し置いて、
耐え忍んで、我慢して、毎朝会社に通勤することが、美徳となっていた。
夢を諦めきれない自分が、恥ずかしかった。
本心では、周りに合わせられない自分が、恥ずかしかった。
だから、親にも友人にもどこにも、
夢を本気で打ち明けたことはなかったのだ。
いつの間にか、
まだ早いと思っていた俺の夢は、
もう遅いに変わっていた。
30歳を過ぎても、いつまでも夢が実現せず、
縋りついている自分が恥ずかしかった。
それでもいつか、何か決定的な事が
起こるんじゃあないかって、
子どもみたいな希望に浅ましくすがりながら
生きている自分が恥ずかしかった。
いつしか、俺は、
自分の人生の傍観者になっていた。
なぜなら、冷めたやつを演じていれば、
バカだと思われないからだ。
分かったやつのふりをしていれば、
他人に馬鹿だと思われないからだ。
それで、どうにかこうにか
人生をやり過ごした。
会社で働いている間、
俺はずっとこう思ってた。
さぁ、次に俺に
やって欲しいことを言ってくれ。
さもなくば、早く帰らせてくれと。
そして、心の中で願っていた。
幼い頃はよかった。
小さい頃はよかった。
学生の頃はよかった。
子どもの頃は自由だった。
いっそのこと、
クビにでもしてもらえればいいのに。
そう思ったのは、
一度や二度じゃあなかった。
俺は、起きている間中、
こんな願いを持つようになっていた。
「時間よ早く、過ぎ去ってくれ」
退屈な授業が終わって、
休み時間がくるのを、
時計を見ながら待ちわびている
子どものように俺はずっと願ってた。
「時間よ早く、過ぎ去ってくれ」
いうまでもなく、
人生というのは、二度とない。
二度とない人生において、
時間よ早く過ぎ去ってくれだなんて…
それほどの不幸が、この世にあるだろうか?
しかし、不幸のままでは、
人間は生きてはいけない。
だから俺は、
人生の希望をねつ造することにした。
程度の低い妄想にすがりつくことにした。
それは、こんな妄想だ。
「今はまだ本番じゃあない
いつか、あとで、必ず俺の番が回ってくる。
今我慢していれば、あとで報われるはずだ。。。」
本番っていうのは、
報われることっていうのは、
もちろん、成功者になるという夢の事だった。
どれだけ我慢すればいいのか?
いつになれば、人は俺を認めてくれるのか?
胸が張り裂ける想いだった。
でも、頭ではクリアに理解していた。
我慢したところで、前進はないってことに。
俺は、寝ていれば、
転ぶことはないっていう酔っ払いと、
さほど変わらないということを、自覚してた。
どれだけ我慢したところで、
自分の番は回ってこないのだと。
なぜなら、人生は、我慢じゃなくて、
行動で決まるからだ。
時間よ早く過ぎ去ってくれ。
そう願いながら、我慢していれば、
あとで報われるはずだと自分に言い聞かせる。
これが、俺が生まれてから、
最初の25年間の生き様だった。
この生き方こそが、
ドストエフスキーの言う、
この世で最も残酷な刑罰ということだ。
徹底的に無益で、無意味な労働をさせること。
これと一体どれほどの違いがあるというのだろうか?
たとえどんなに、社会的な影響力のある仕事であろうとも関係ない。
徹底的に無益で、無意味な労働というのは、
社会的な意義を持ち合わせていないというだけではなく、自分ではなくても出来る仕事だ。
自分である必要のない仕事。
それに従事することも含んでいる。
徹底的に無益で、無意味な労働とは、
自分でなくとも出来る仕事に従事することで、自分の唯一無二の存在を消すことだ。
これを徹底的に無益で、
無意味な労働と言わすに、何と言おうか。
これをこの世で最も残酷な刑罰と呼ばずに、
何と呼ぼうか。
最初に、ドストエフスキーのこの世で最も
残酷な刑罰の話をしたとき、
あなたはもしかしたら、
現代社会とは無縁の、遠い世界の話だと
思ったかもしれない。
そうじゃあないんだ。
この世で、最も残酷な刑罰。
徹底的に無益で、無意味な労働をさせること。
それは、俺たちのすぐそばに潜んでいるのだ。
取り換えの利く仕事に従事させ、
時間よ早く過ぎ去ってくれと思わせる。
そして、我慢していれば、
あとで報われるはずだと、
希望をみないように先送りさせる。
そんな不本意な選択によって、
この先、今この瞬間を積み重ねていったら、
一体どうなってしまうか考えてみて欲しい。
俺が長らく抱えてきた苦悩と恐怖とはこういうことだ。
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徹底的で、無益で、
無意味な仕事に従事しながら、
それでもなお、浅ましくも生きながらえなきゃあいけない。
これほどの恐怖を、俺は他に知らない。
生きることの方が、
死ぬことよりも怖いという事だ。
俺はずっとそう思っていた。
死ぬよりも、生きることの方がずっと怖い。
そうやって、ずっとビクついて生きていたのだ。
この苦悩と恐怖に対する
突破口が開いたのは、
夢を諦めようとした時だった。
システムエンジニアとして働きながら、
投資家としての夢を見るその両立が、
上手くいかなくなった時に、
俺は夢を諦めることを本気で考えた。
夢を諦めようとして、
諦めようとして、、、
諦めきれなかった…。
どうしても、諦めきれなかった。
なぜ諦めきれなかったのか?
それは、自分自身を生きるためだ。
取り換えの利く存在ではなく、
俺である必要のない存在ではなく、
自分自身を生きるいことだ。
それは、諦めきれない。
俺はいつも自分自身を偽ってきたが、
夢を諦める瀬戸際で、ようやく見つけたのは、自分自身だ。
自分自身ってぇのは、
自分を唯一無二の存在にたらしめているものだ。
かの賢明なる人類様が、
発見してきた数々の法則と論理、
そのいづれによっても説明できない、
唯一無二の無限の自由を備えた存在なのだ。
それはつまり、、、
人間の意志の事だ。
人間の情熱の事だ。
人間の衝動の事だ。
人間の感情の事だ。
人間の心の事だ。
考えても見てくれ。
なぜあなたは、
今日この文章に目を通しているのか?
それは、神にすらわからない。
なぜなら、人間の意志、そして人間の心は、
あらゆる論理から解き放たれた、無限に自由の存在だからだ。
夢の終着点で俺が見つけたのは、それと同じものだった。
俺の心に一杯に広がっていたのは、
夢と情熱だった。
証明することは出来ない、
説明することは出来ない、
しかし、確実に存在している。
夢と情熱。
社会的合理性と割り切れないもの。
夢と情熱。
死ぬよりも、
生きることの方が怖い人生において、
それでもなお、心を支え続けていたもの。
それが、夢と情熱。
何故俺はこんなにも、自分自身を押し殺してきたのか?
自分自身を生きようともせずに、一体誰になろうってんだ?
ようやく決意したのだ。
俺は、自分の人生に責任をとるってことだ。
それは「自分自身を生きる」ってことだ。
かつて、多くのスターたちが、
謳ってきた通り、
俺たちは望めばなんにでもなれる。
人気者にもなれる。宇宙にも行ける。
オリンピック選手にだってなれるだろう。
そんな風に俺たちは、気を抜くとすぐに
他の誰かになりたがる。
俺たちは、俺たちでよかったんだ。
唯一無二の自分自身を生きることだ。
自分自身を喚起しようとするのではなく、
開放することだ。
俺が今日、
あなたに伝えるべき言葉は、これだ。
夢と情熱。
人生の真の喜びとは、夢と情熱。
それが答えだ。
夢と情熱に従うことだ。
夢と情熱に従うってのは、
今この瞬間に生きるってことだ。
5年後の夢とか、
10年後の情熱とか、
そんなものには価値はない。
夢と情熱っていうのは、
今この瞬間に存在して、価値がある。
俺が今日、
あなたに伝えるべき言葉は、こうだ。
まだ早いと思っていること、
もう遅いと思っていることを今だからやるんだ。過去も、未来にもとらわれるな。
過去も未来も、
今この瞬間に俺たちが思い描いている
妄想以外の何物でもない。
だからまだ早いと思っていることを、
もう遅いと思っていることを、今だからに変えていくんだ。
無論、
簡単な道じゃあないのはわかっている。
予言してやろう。
俺には未来が見える。
あなたはいずれ、そう遠くない将来、
自分の才能のなさに嘆くことになる。
そのうえ、自分の夢と情熱が、
他人に迷惑をかけ、
他人を不快にさせていること。
それを気に病むことになる。
そんな時は、これから俺が話すことを思い出してくれ。
夢に対する才能が足りないなんて、
嘆くようなことはするな。
夢を持ったんだったら、
その分野において、あなたがその才能を
備えているっていう事の表れでしかない。
夢を持つことは、
誰にでも出来るようなことじゃあない。
夢をもった。それだけで、
あんたには才能があるってことだ。
そして、自分の夢と情熱が
他人に迷惑をかけ、
不快にしていることに気を病むことがあったら、こう考えて欲しい。
あなたが迷惑をかけ、
不快にした人間以上に、
あなたの夢と情熱が、人に勇気を与えてる。
夢と情熱は、他人に迷惑をかける。
それは、避けられない。
しかし、それ以上に、夢と情熱は、
人に勇気を与えるパワーを持っている。
迷惑をかけた人間ばかりに、目をむけるな。
勇気づけた人間に目を向けるんだ。
俺が今日、
あんたに伝えるべき言葉は、こうだ。
夢と情熱。
真に価値があるのは、夢と情熱。
人生に、真の喜びを与えてくれるのは、夢と情熱。
それが答えだ。